主の望み 2020年4月5日 受難週を覚えて

毎年、私たちはイースターの前の一週間を、受難週としてエルサレム入城から十字架への道を、聖書日課と祈りをもって過ごしてきました。今年は特別に、それぞれが自粛を要請され、静まって主イエスの最後の一週間を思い、さらに弟子たちへの深い愛を感じる時が与えられているように思います。キリスト者にとって何か「不要、不急」ではない!と、告白できるか。信仰の本質が問われている時と言えるでしょう。

イザヤ書の中で、第二イザヤといわれる40章から55章の中には、4つの主の僕が描かれています。 最後の52章13節から53章には、主の僕の苦難と栄光が記され、新約聖書での引用が極めて多い箇所です。それほどまでに、預言者イザヤが指し示す「彼」が、イエス・キリストであると、使徒パウロが、また福音書の著者が、預言の成就と確信して記していったのでした。

そこに描かれていく「彼」は、イスラエルの民がいままで待ち望んでいた、政治的にあるいは経済的に捕囚からの解放や祖国復興を成し遂げる力強いリーダーシップを持った人ではありません。多くの国民が驚くほどに、王たちが口を閉ざすほどに、麗しさも輝きも失われ、望ましい容姿を見出すことのできない姿で描かれています。さらに人々に軽蔑され、見捨てられるほどであったと記しています。

「彼」は、私たちの病いを担い、私たちの痛みを負い、私たちの背きや過ちのために刺し貫かれ、打ち砕かれていったにもかかわらず、誰も主が起こされた出来事のみ旨、御心を知ろうともしなかった。「彼」は、屠り場に引かれていく小羊のように、最後まで口を開いて弁明をすることもなかった。そこに描かれた「彼」は、徹底的に主の望みに従い、自分の命を償いのいけにえとして献げつくしていったのでした。

わたしたちは、主イエスがその最後のときまで、自分の命を注ぎだして、とりなしの祈りを捧げておられたことを、この受難週の中で、深く受け止めていきたいと思うのです。