主の祈り③ 2014年11月9日 主日礼拝

聖書 マタイの福音書 6章12、14、15節

わたしたちは、赦されたいと思う過去と、赦したいと思う未来を、あわせ持ちながら生きているのかもしれません。 ご一緒に、主の祈りを分かち合っていますが、本日のテーマは、「赦し」です。聖書は、赦しの主体は神であると断言します。限界のある人間は、その壁を、完全に超えることができないことを、主は良くご存じなのです。

マタイの福音書では、 主イエスは、「私たちの負いめをお赦しください。」と祈るようにと語られました。負いめとは、借金のことです。主イエスが語る神の国のたとえ話には、王と僕の決算の話があります。とうてい返すことのできない一万タラントン(3000億円)の負債を負った僕が、王のあわれみのゆえに、すべて赦されて放免されるのですが、他方、自分に百デナリ(50万円)の負債を持つ仲間をゆるさず投獄してしまいます。王はそれを聞き、「わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか」といい、僕を獄史に引き渡してしまうのです。(マタイ18:21-35)このように、赦されることと、赦すことには、分かつことのできない状況が、その人を取り囲んでいることを思うのです。

主イエスは、「私たちも、私たちの負いめのある人たちを赦しました。」と祈るように教えてくださいました。わたしたちは、自分自身が深く傷つけられ、立ち直れないような出来事に対して、人を恨み、憎しみをつのらせると、体中が蝕まれて破壊への道をたどっていくことを知っているのです。 人は、神の計り知れない恵みの大きさ、そのあわれみによって、赦されていることに気づき、それを受け取ることからしか、人を赦すことはできません。 今日、一人の人が、その大きな愛に応答して、信仰告白をし、バプテスマを受けます。すべでの罪が赦されて、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事によって、新しく生まれ変わり、神の愛に生きる一人の誕生の時を、共に喜びましょう。