主の祈り④ 2014年11月16日 主日礼拝

聖書 マタイの福音書 6章13節

主の祈りをシリーズで、分かち合ってきました。最後の祈りは、試みに向かう祈りです。この祈りは、先週の「罪の赦し」が、過去の祈りであるとすれば、将来に向かっての備えを祈るものとも言えるでしょう。わたしたちは、教会の与えられた子どもたちの将来を思い、大切な祈りを届けたいと思うのです。子どもたちの成長を思うとき、人の思いや言葉に振り回されるのではなく、生きるために堅く立つべき場所へと、立ち帰ることができるようにと祈るのです。

試みには、試練、誘惑と、二つの意味が、含まれています。あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。(Ⅰコリント10:13に表されるように、聖書は、試練は喜ばしいものと、とらえています。一方で、人はそれぞれの欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。(ヤコブ1:14と記されたように、人が生きるということは、絶えず誘惑に立ち向かわなくてはいけないことも思うのです。試練と誘惑の区別は、それに巻き込まれたときには、見分けることはできないことが多く、過ぎ去った結果の中でしか判断できないものとも思えます。

聖書は、この世にこられた主イエスは、まさに悪魔の試みを受け続けた生涯であったことを記します。 荒野の悪魔の誘惑に対して、一つひとつ御言葉を持って、悪魔に向かい、「引き下がれ。サタン」と語られたイエスは、ゲッセマネにおいては「この杯を、わたしから過ぎ去らせてください。」と悶えて祈る方であったのです。わたしたちは、弱さと愚かさの中で、誘惑に勝利することはできないことを知り、「あなたのみこころのように、なさってください。」と祈り、十字架へ向かう主イエスを見るのです。 だからこそ、教会は、子どもたちに、共におられる主こそ、悪より救い出してくださる方であることを伝え続けるのです。