主を待ち望む 2014年11月30日 主日礼拝

聖書 創世記4章7節    田中明子

アダムとエバ、カインとアベルのエピソードを通して、罪と犠牲、そしてイエス・キリストによる救いについて、ご一緒に考えてみたいと思います。

聖書で言う「罪」とは、ガラテヤ人への手紙5章19節以下に、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、その他そういったたぐいのもので、このようなことを行う者は、神の国を相続することはできないと書かれています。この中で一番厄介なのは、「偶像礼拝」と「ねたみ」ではないでしょうか。

「偶像礼拝」はしていないと言われる方は多いと思いますが、神より大切にしているものがあれば、それは「偶像礼拝」です。最初の人アダムは、神さまの言葉よりエバの言葉を信じて、木の実を食べました。そしてその責任をエバに押し付けたのです。アダムの言葉は究極的に、「どうしてあなたは、ヘビをお造りになったのですか」という真意が隠されているように思います。謙遜に自分の罪を告白する代わりに、他の人や、環境、あるいは神までも非難して、自己を義とし自分を弁護しようとするのが私たちです。

アダムとエバが犯してしまった「罪」が、神と人間との間を隔ててしまいました。しかし、神はそんな私たちでさえ愛してくださって、一つのお約束を下さったのです。女の子孫=イエス・キリストが贖い主としてお生まれになるという約束です。ローマ人への手紙6章23節に「罪から来る報酬は死です」とあるように、血を流すことなしに罪の許しはあり得ません。ですから、神の約束のイエスさまが犠牲になられる時まで、獣の犠牲が必要でした。

自己流の献げ物を献げて神に否まれ、嫉妬からアベルを殺してしまったカインは、「主の前から去って」自分の都市を建て、その子孫も神から離れて、その中で様々な宗教が生まれていくのです。

今日から待降節。私たちの罪を許し和解をもたらすために、贖いの犠牲としてお生まれになったイエス様に感謝します。