人としてこられた方 2014年4月27日 主日礼拝

聖書 マタイの福音書 1章1~17節

新約聖書を読もうとする時の、第一関門は、最初の一ページと言われます。なぜなら、カタカナの羅列が、丸1ページ続いていて、興味を失い、挫折したという経験を持つ方がいらっしゃるとのことです。どんな本も、出だしが重要なのですが、私たち日本人にとって、このカタカナの羅列の中に潜む、ユダヤ人たちの深い期待と歴史的背景には、解説が必要だと感じるのです。

この系図は、創世記に記された最初の人アダムからは、始まっていません。信仰の父といわれるアブラハムから、主イエス・キリストの誕生までの記録が記されています。アブラハムに約束された人類の救いが、キリストによって成就したことを、明らかにすることを示しているのです。またダビデ王の子孫に、必ず救い主メシアが現れると、預言者が語り、ユダヤ人たちが、大切に手渡していった「神の国」の王がいらしたことを記すのです。

それは、神の計画によって、ユダヤ民族の中に、キリスト、救い主メシアが生まれられたことを記しているのです。決して、突然、天から降ってくるような現れ方ではないことを強調しているのです。人間として現れ、人間として、この世を生きられたことを、十字架の死においても、人間であったことを、思い起こしているのです。 そこには、同胞のユダヤ人が、キリストが、来てくださったことを喜び、共に新しい契約を、受け入れて生きてほしいという、著者の熱い祈りを感じるのです。

この箇所には、新改訳聖書では、「生まれ」という言葉が、なんと40回も記されています。その言葉は、辿ってみると「父になる」という意味にいきつきました。人間の生活の営みの中で、嬉しく、誇らしい事は、「父になる」という出来事であり、そこには、確実に、信じるという思いが、必要なこととも言えるのでしょう。命の誕生の出来事は、人にとって、向かい合う一人の人を信じ、また神の存在に思いが至る時なのかもしれません。