何も当てにしないで 2020年7月5日 主日礼拝

聖書 ルカによる福音書 6章27-36節

主イエスは、平地で大勢の弟子たちにむかって神のみ旨を語ります。聞いた人々は、自分たちが考えていたこととは、全く逆のことが告げられていきます。「幸いと災い」の主イエスの言葉で、ついていけないとして、立ち去っていった人々もいたことでしょう。しかし、さらに耳を傾けていく人々にむかって「聞いているあなたがたに言っておく」と、主イエスは続けて語るのでした。

「敵を愛し、憎む者へ親切を、呪う者を祝福し、侮辱する者のために祈りなさい」との言葉は、そこにいた人にとって、簡単には受け入れられないように思えたのです。なぜなら、耳を傾けていた人々は、抑圧的な社会の中で搾取され、踏みつけられる側に、さらに宗教家より罪人とされた屈辱的な生活を強いられていた人々でした。不平や不満が渦巻いている状況だったのです。しかし、主イエスは、さらに頬を打つ者にほかの頬をむけ、上着を奪い取る者には下着をも拒まず、求める者には誰にでも与え、持ち物を奪う者から取り戻そうとするなと言われるのです。

主なる神は、敵を愛し、人によくして、何も当てにしないで、御子イエスを、この世にくださったのです。さらにイエス・キリストは十字架にかけられることで、世界で最も悲惨な敗北の中で、その命を終えていきます。それも何と「彼らをお赦しください」と、何も当てにしないで、最後の祈りをしていくのでした。いつまで、自分を愛してくれる人を愛し、自分に良くしてくれる人によくするだけなのか?と問いかけられている私たちがいるのです。

人間が憎む者へ、呪う者へ、屈辱する者へ、復讐の連鎖を続けるかぎり、平和は実現していくことはないでしょう。権力や財力、さらに暴力で人を従わせていく方法では、決して人は心からの信頼を置くことはないでしょう。やられたらやり返すことではない方法を主イエスが示すのです。それは敗北のままの状況とも違うのです。いと高き方の子になるとは、慈しみを学び続ける生き方ともいえるのでしょう。