何を土台にするのか? 2015年2月1日 主日礼拝

聖書 マタイの福音書 7章24~29節

いよいよ山上の説教と言われる宣教も終わりとなってきました。主イエスは、最後のたとえに、自分の家を建てるという行為を用いて、どのように生きるのかを語られたのでした。 岩の上に家を建てた賢い人と、砂の上に家を建てた愚かな人の対比が記されています。ここで、注目すべきは、土台の本質である「岩」を見失わないことでしょう。

主イエスは、「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。」と語られたのでした。山上の説教と言われる5章から7章の間に、主イエスは、一緒に山に上っていった人々に、多くの言葉を語られたことが記されています。それは、その人々が、いままで捕えていた、律法、きまり、あるいは、ユダヤの人々の慣習、習慣を、根本的に見直して語られた言葉でありました。すなわち、創造主なる神が、どんな思い、意志、恵みの中で、そのような律法と預言者を、人々に送ってくださったのかを、語られた言葉であったのでした。

そこにいた人々は、その言葉を聴き、いままでには触れたことのない衝撃と喜びの中で、受け止めたに違いないのです。その言葉は、まさに神の意志であるので、それぞれの人が、それぞれの生活で、自分なりに解釈したり、適用しようとするものではないのです。主イエスが、求めておられることは、直ちに行い、従って生きることであったのでした。

私たちの生活は、雨が降って洪水が押し寄せ、風が打ち付けられるような状況にさらされることが起きるのです。み言葉こそ、主イエスそのものであり、そこに結びついて生きることなしには、小さな出来事ひとつで、大きく倒れてしまうことになるのです。しかし、岩の上に土台が置かれてあった家が倒れなかったように、キリストの言葉の上に立って、聞いて行う生き方にこそ、本来の喜びと希望の中で、歩む者とされるのです。