安息日の主 2020年5月24日 主日礼拝

聖書 ルカによる福音書 6章1-5節

ユダヤ社会において安息日を守るということが、いかに大切なものなのかを知らないと本日の聖書箇所は理解することができないように思えます。もともと安息日(シャッパート)は、やめる、休むという意味を持ち、出エジプト20章、申命記5章の両方に記された十戒に、始まりを見出します。イスラエルの民は、エジプトにおいて奴隷であった歴史を持ち、またバビロン捕囚においても異邦人の主人に仕える状況に置かれていました。そんな中で、十戒によって、創造主なる神様が、天地万物の完成した後にその業を休まれたように、主人から率先して休み、子どもたち、男女の奴隷、家畜、寄留者をも休ませるようにとの戒めであったわけです。

ところが、決まり事がルールになり、その本質を忘れ、主イエスの時代になると、安息日にしてはいけない仕事は、39項目、細則1500にも至っていたようです。ですから金曜日の日没から土曜日の日没までは、家事を含め一切の労働をしてはいけないことになってしまっていたのでした。そんな中で、安息日に主イエスの弟子たちは、麦畑を通る間に穂を摘み、手でもんで食べていたのでした。この行為は、安息日でなければ許される仕事であったのですが、してはいけないこととして罪に問われることになるのでした。

咎め立てるファリサイ派の人々にむかって、主イエスはダビデとその供の者が、神の家で祭司しか食べてはいけない供えのパンを食べたこと(サムエル上21:1-7)を例に出して

「人の子は安息日の主である」と語られたのでした。

主イエス・キリストの復活を喜び、キリスト者は「週の初めの日」すなわち日曜日を安息日として、仕事を休み、神の御前に集い礼拝する日としました。この世での日々の疲れ切った生活を、積極的に「やめる。休む」ことが求められているのです。神の前に立ち、罪が赦され自由にされていることを喜ぶ礼拝の中に、本当の平安が与えられていくのです。