平和を実現するために 2013年8月4日 平和祈祷礼拝

聖書 エペソ人への手紙 2章14~16節

いまだかつて、真の平和が訪れたことがない世界に私たちは住んでいます。沢山の言葉が届けられ、沢山の尊い生命が、「平和」という言葉の為に、失われていった。そのような歴史の中に、生きてきた私たちです。

キリストこそ私たちの平和である。(エペソ2:14と、記された聖書の言葉は、戦前の日本の教会でも、語られてきた箇所です。東洋平和のために、必要な闘いであると、教えられていたことを聞きます。長崎に投下された原子爆弾を乗せた攻撃機も、従軍司祭によって、再び平和が訪れるようにと祈られて出発していったのでした。 み言葉は、確実に、本当の平和に繋がる道を示し続けているのです。どのように応答するのかが、問われているのです。み言葉を、今、どのように語らなくてはいけないのか? 教会が、その言葉から、どんな応答をして生きていかなくてはいけないのか? 敵意に満ち、殺戮と報復の只中に生きる教会として、歴史に学び、繰り返すことのない歩みを見極めなくてはいけないのでしょう。

平和とは、戦争や戦闘がなく、社会秩序が保たれている状況をさす(語感の辞典)では、次に起きる闘いまでの時間でしかなく、完全な平和(シャローム)にはなりえないのでしょう。力を持って、力による均衡から、生まれてくる平和も、均衡が崩れる度に、闘いの世界へと投げ込まれることを、私たちは知っているのです。 イエス・キリストが、「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」と、パンを裂いて渡たされた意味を、真剣に捉え直していかなくてはいけないのです。 平和と言いながら、神を必要としない生き方をしてきたわたしたちにとって、キリストの十字架の下に裁かれることこそ、神から差し出された愛に応答する唯一の方法なのです。これしか神との、そして人間同士の和解への道は、ないことを受け止めて行きたいと願うのです。