幸いと災い 2020年6月21日 命どぅ宝の日 特別礼拝

 

聖書 ルカによる福音書 6章20-26節

山上の説教(マタイ5:3-11)に対して、このルカによる福音書は、山から下って平地で、群衆と共にいる弟子たちに向かって、4つの幸いに応答するように4つの災いが語られています。 主イエスの第一声は、「幸いなるかな」という宣言です。そのように語られる人々は、貧しい人々であり、飢えている人々であり、泣いている人々、さらに人の子のために差別され、排斥され、捨て去られる人々でした。一方、「災いあれ」と告げられた人々は、富んでいる人々、食べあきている人々、笑っている人々、さらに皆にほめられている人々でした。

私たちは毎年、命どぅ宝の日(6月23日)に近い主日礼拝に、沖縄を覚えて礼拝を行っています。沖縄の教会から発信される「祈り便」を受け取るたびに、日本国土の約0.6%の場所に70%の基地が存在するゆえの痛みと苦しみと叫びが聞こえてきます。たび重なる米軍機からの落下物事件、辺野古の土砂流入、沖縄諸島での自衛隊基地建設など、集中して諸問題が発生しているのです。沖縄には、いまだ戦争が続いたままで、暴力によって問題を解決する道ばかりが際立っているように見えます。その事実にむかいあってもなお、安全地帯にいて傷つくことなく傍観者の一人として生きている私たちを思います。

沖縄の歴史をたどると、もともと独立国家であったにも関わらず、日本国に取り込まれたゆえに負わされた厳しい現実を知ります。特に沖縄地上戦における人々の暮らしは、貧しく、飢えて死に、泣きはらしたこどもたち、さらに本土での戦争が終わってもなお差別された状況が、いまだに続いているのです。

主イエスはそれでもなお「幸いなるかな」と宣言されます。この世の尺度でいえばありえないことです。しかし、逆転の世界が主から与えられていくことに希望をもって生きていく人々こそが「幸いなるかな」なのです。戦後75年、主から「災いあれ」と語られる傍観者としての生き方に、終止符を打つことが求められます。