手を伸ばして 2015年2月8日 信教の自由を守る日 特別礼拝

聖書 マタイの福音書 8章1-4節

主イエスは、山上の説教を語り終えられると、山を下り、群衆と共に、この世へと進んでいかれたのでした。神から与えられた福音は、常にこの世の中にあり、社会の只中で、語られるものであります。主イエスが行われた奇蹟、癒しの出来事を、マタイの福音書は、丁寧に記述しません。その出来事を通して、当時の人々を閉じ込めている法律からの解放者、神からの律法を成就するメシアであることを、強調したのでした。

重い皮膚病と、祭司長に宣言され、ひとり宿営の外へ追いやられた人は、山から下りてきた一行に割り込むようにして、主イエスを礼拝するのでした。 その人は、律法を犯してまで、主イエスに近寄っていったのでした。その真剣な求めに応答した主イエスは、手を伸ばして、「わたしは、あなたが清くなることを望む。清くなりなさい。」と癒され、共同体での生活を取り戻すことができるようにされたのでした。主イエスが行った「手を伸ばす」行動は、この世の法律に反していました。支配者たちは、いつの世も、自分たちの都合の良い法律を作り、都合の良い神を祀り、守らない人々を縛り、恐怖によって押さえつけようとします。しかし、主イエスの行いは、和解と赦しの中で、人々を解放させ、共に生きる道を見出していくことができるものでした。

現代社会の私たちの生活は、この世の出来事に振り回され、主からの小さな御声がかき消され、聴けない状況に在ると言えるのではないでしょうか? だからこそ、み言葉に聞いて従う人々が、呼び集められる場所と時間が必要なのです。教会が、この世で、建国記念日と表している祭日を、毎年、信教の自由を守る日として、記念するのは、私たちの歴史の中に、その場所と時間を奪われた時代があったことを思い起こすためです。神様からの福音、小さな御声がかき消され、この世の時流に流されてしまった事実を、そして今も流されようとしていることを語り続けるためです(新生讃美歌428,3)