手を伸ばして 2020年6月7日 主日礼拝

聖書 ルカによる福音書 6章6-11節

安息日とは、本来創造主に倣って、自分自身、そして男女の奴隷や寄留者にも休みを与え、命を救うためのものでした。ところが、律法学者やファリサイ派の人々にとって安息日は、「してはならない項目表」によってチェックする日になってしまっていたようです。彼らは、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気を癒されるかどうか、うかがっていた(6:7)と、聖書は記します。

安息日に会堂に入って教えておられた主イエスは、右手が萎えた人に出会います。この人が会堂に連れてこられたのは、主イエスを罪に定める口実のためだったことが考えられます。彼らにとっては、その人が負ってきた不具合のための悲しみや、生活していく方法など、とるに足らないことでしかなかったのでしょう。 人は知らず知らずに、自分の考えや立場を保つために、誰かが片隅に追いやられてもしょうがないと思えてしまう罪を抱えているのかもしれません。

主イエスは、彼らの考えを見抜いてその人に声をかけます。「立って真ん中に出なさい。」指導的立場にいる宗教家たちが会堂の真ん中に陣取っている状況の中で、主イエス自身がまず手を差し伸べてお招きになるのです。「その人は起き上がって立った。」この物語の中で、一度も声を聞くことのできない「その人」が、主イエスの言葉に応答して立っていきます。

主イエスは「してはいけない」ことばかりに注目している彼らに尋ねられます。「安息日に許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」 そこには、本来の安息日の深い意味と神の愛を受けて「してよいこと」を問いかける主イエスがいるのでした。さらに「その人」の悲しみや痛みに共感する中で、「手を伸ばしなさい」という主イエスの言葉が、手を元通りにしていくのでした。律法によって人を裁く彼らと、愛と慈しみの中からの掟を明らかにされる主イエスとの大きな違いこそが、彼らの分別を失わせていくのです。