来るべき方 2020年9月20日 主日礼拝

聖書 ルカによる福音書 7章18-23節

ローマ帝国の支配下で弱く小さくされていた民衆はメシアを待ち望んでいました。彼らはバプテスマのヨハネを、この闇の中から解放するメシア(救い主)ではないかと考えていました。しかしヨハネは「私より力のある方が来られる(3:10)」と語るのでした。 さらに彼はその方を、聖霊と火でバプテスマを授け、箕によって麦と殻を分けるように裁かれる方であることを示したのでした。

そのヨハネが獄に捕えられ、自由を奪われた中で、弟子たちから主イエスの出来事を聴くのでした。彼は弟子たちを主イエスのもとに送り尋ねさせます。「来るべき方は、あなたですか。それともほかの方を待つべきでしょうか。」しかし、主イエスは弟子たちの質問に直接応えるのではなく、「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい」と促すのでした。そして目の見えない人、足の不自由な人、規定の病を患っている人、耳が聞こえない人、死者、貧しい人がそれぞれに、主の救いを体験し、恵みが与えられたことを示すのでした。

この世に遣わされたイエス・キリストをあなたは誰と言うのか? 現代社会に生きる私たちにとっても大きな問題であり、それこそが信仰告白の急所とも言われる所以でしょう。私たちは聖書から生きた主イエスの出来事を聴き、み言葉を与えられ、教会の交わりによって生きた証人に出会うことが赦されています。 しかし自分自身の生活に主の迫りを感じながらもなお、確証がないと、遠ざけてしまう人々が多いのです。

主イエスは「私につまずかない人は幸いである。」と語られました。故郷ナザレの会堂で、イザヤの預言を通して「主が私を遣わされた」と宣言(4:21)されても、人々は「ヨセフの子」である主イエスを「来るべき方」として受け入れることができませんでした。私たちが「来るべき方はあなたなのですか?」という問いを持ち続ける以上、つまずきは免れることがないのでしょう。それゆえに主イエスは処刑されたとも言えるのです。