灯を置く場所 2020年10月25日 主日礼拝

聖書 ルカによる福音書 8章16-18節

著者ルカは、種を蒔く人のたとえに続いて、灯のたとえを用いて「神の言葉を聞く」と言う主題に対して相互的に結び付けて語り出していきます。この16節から18節のそれぞれの言葉は、福音書の様々な場面で用いられており、当時の格言を引用して、主題を強調するために並べ直しているともいえるでしょう。

まず「灯(ともしび)」をどこに置くのか?を問われます。神の言葉を「光」としてとらえ、その光によって歩み続ける幸いを旧約聖書の中からも見つけ出すことができます。それほどまでに、小さな「灯」は、当時の人々の生活にはなくてはならないものであり、絶えず油を補充して暮らしていったのでした。著者ルカは、入ってくる人に光が見えるように、燭台の上に置く(8:16)として、未だ神の言葉に触れたことのない人への宣教を思い描いて記していきます。

次に「隠れているもの」「秘められたもの」として、主イエスが語りだした神の国の秘義は、十字架と復活を通してしか、全ての人へ告げ知らせられることがないことを示していくのです。繰り返される迫害の中で、あらわにならないように注意しつつ集会を開き、ひそやかに明らかにならないように祈り続ける人々にとって、必ずすべての人に伝えられる時が与えられるという希望が忍耐を生んでいくのでした。

持っている人とは、神の言葉を受け止め、豊かに実を結ぶ人であり、持っていない人とは、熱心に神がその言葉を蒔いたとしても、実を結ぶには至らなかった地を指し示しています。 主イエスの言葉に、また行動に対して、律法に反していると批判ばかりし続けるファリサイ派の人々や律法学者は、自分こそが神の言葉を持っていると宣言し、人々を導いていました。現代社会に生きるわたしたちが、彼らと同じように、「灯」を寝台の下に隠し、自分なりに神の言葉を受け止めたつもりで実を結ぶことのない人になっていないのか?

主イエスからの問い掛けは続きます。