神の作品 2020年8月9日 召天者記念礼拝 

聖書 エフェソの信徒への手紙 2章10節

現代社会の中で、わたしたちは「すべての人間の命は尊い」と考えながら、「生きている価値のない命」という言葉に揺さぶられています。その人が存在することの尊さよりも、何ができるのか?と、数字による価値を追求する社会の中に、闇の力を感じます。人に迷惑をかけないで生きたいという思いが、究極的には「命」に値段をつけ、役に立つか立たないかの判断へと導かれ、ついに絶望感が広がっていくように思えます。

聖書の語る神は、人を自分のかたちに創造され(創世記1:27)、その存在を極めて良いと祝福された方です。しかし、人間は成長と共に、なぜか創造された命や育てられた命を過去において、自分の考えや自分の思いで生きることに精一杯になってしまう傾向を持っているようです。そしてうまくいかないと自分を責め、人と比べてしまう中で、希望を見失っていくのかもしれません。

今年の召天者記念礼拝の名簿には、新たに2名の教会員が加えられました。お二人とも、高齢者と言われる年齢になってから、主イエスに出会い、主イエスと共に残りの人生を、喜びの中で歩まれた方々です。そしてお二人とも、ご家族の長い祈りによって、イエスを主と告白し、救いの出来事が起こされたことを思い出すのです。

使徒パウロはエフェソの教会の信徒たちに「私たちは神の作品である」と示します。胎内でまだそれぞれの骨が形造られる前から、神がその存在を喜び、一人ひとりに「命」を与え、使命を準備されたというのです。神が前もって準備してくださった善い行いとは、自分だけのために生きるのではなく、他者と生きることを示しています。

教会で、召天者記念礼拝を行うことは、旅立った友の「命」を思いおこすだけでなく、まさに自分自身の「命」に目を向けることが求められているのです。まさにわたしたちの「命」が神によって創造され、神の作品として生きる準備ができていることを確認し合う礼拝でもあるのです。