神の力を望まない人々 2015年3月22日 主日礼拝

聖書 マタイの福音書 8章28-34節

自然が荒れ狂って嵐となり、人を苦しめるが、人の内面が荒れ狂って嵐になることを、当時の人は、悪霊につかれていると表現した様子です。荒れ狂うガリラヤ湖を静められた主イエスを乗せた舟は、向こう岸のガダラ人の地に到着します。そこで、一行を迎えたのは、悪霊につかれた人がふたりでした。彼らは、墓に住み、ひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであったと、記されています。

現代社会においても、自分たちの力、医療知識では、対処できない状況に置かれたとき、人との関係性を分断し、隔離して、危害が及ばないようにする事例を見ます。この箇所でも、狂暴になった二人の人は、墓場へと追いやられていたのですが、主イエスに出会ったと記されています。その人自身と悪霊とを分けることができるのは、神からの力を得た主イエスだけです。 主イエスが、多くの悪霊につかれた人々から、霊を追い出した事を、いくつもの箇所から見ることができますが、ここでは、悪霊自らが叫ぶ声を聴くことができます。「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」

悪霊は、主イエスが神の子であることを人間たち以上に知っていました。また悪霊たちは、その時、すなわち終末の時には、自分たちは滅ぼされていくことも知っていました。弟子たちより前に、悪霊こそが、主イエスの本質を知っていたことを思うのです。主イエスが、真の神であり、真の人間として生きられた深い意味の中に、神の愛を思うのです。

異教の神の象徴である豚と共に、悪霊は死んでいき、悪霊につかれた人の魂は解放され、本来の人とされていきました。しかし、この地域の人々にとって、人間の魂の解放より、自分たちの生活や財産の方が大切だったため、神の力を望むことなく、真の救い主を追い出していくのでした。心に主をお迎えするには、何を最も大切にするのかを、聖書はいつも問いかけているのです。