空の鳥 野の花 2014年12月14日 主日礼拝

聖書 マタイの福音書 6章25~34節

わたしたちの生活には、絶えず「心配」が、付きまとっていると感じさせられているのかもしれません。この言葉は、思い煩い、思い悩み、とも訳され、「心を分配する」に由来します。ですから、主イエスは、だれも、二人の主人に仕えることができないと語られた後に、「心配」が、いかに人間の心をとらえ、神様への心の向きを、むりやり変えようとしているのかを示してくださったのです。

種まきも、刈り入れもしない空の鳥、働きもせず、紡ぎもしない野の花を示し、主なる神が、鳥を養い、花を装ってくださることに気づくようと言われるのです。冬の季節に、渡り鳥が飛び立ち、春にむかって小さな蕾を準備している木々を見るにつけ、それぞれの被造物の必要を満たしてくださる主を思うのです。しかし、現代社会に生きる私たちは、マモン(富)の神が提供する、安定と安心の誘惑のワナに陥らされて、「心配」に翻弄されている人間の有様を見るのです。 主イエスは、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか、と「心配」するのではなく、いのち、からだ、に現される、その人の存在の大切さを思うように語られるのです。すべての必要を満たし、私たちを、こよなく愛し、育ててくださる主に向かいあうことの重要性を示されるのです。キリストに従う人の道は、実に単純であるにもかかわらず、「心配」によって、わき見をし、道を見失ってしまう危険性があることを把握していかなくてはいけないのでしょう。

神の国と神の義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、すべてが与えられる(マタイ6:33と、宣言されたイエス・キリストは、徹底的に、主に従う道を、十字架への道を貫かれた方でありました。 自分の力や労働に期待し、自己責任という言葉によって、人の助けまで受けようとせず、孤立してしまう人々に、主の愛と希望を伝えていきたいと願うのです。アドベントの時期、希望の光なる主のご降誕を告げ知らせる一人となりましょう。