義人も悪人も 2014年1月26日 主日礼拝

聖書 使徒の働き24章10~21節

総督ペリクス閣下の前で、パウロは弁明することを許されます。まず、自分がエルサレムに上ってから、宮でも、会堂でも、また市内においても論争や騒動をおこしたことがないことを示します。また、パウロを訴えている人々が異端と呼んでいる「この道」に従って、先祖の神に仕え、律法にかなうこと、また預言者たちが書いていることを全部信じていると語るのでした。

使徒の働きの中で、「この道」という言葉を用いるときは、主イエス・キリストの教え全体を現し、その教えを受け入れる人々、共同体を言い表しています。 パウロにとって、「この道」は、ユダヤ教の分派、異端ではなく、むしろ完成であると思っていたことが、彼の手紙からも知ることができます。私たちは、信仰によって律法を無効にすることではなく、かえって、律法を確立することになるのです。(ローマ3:31) キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。(ローマ10:4)

パウロは、死者の復活について、より確かな思いを、自分自身の言葉として、伝え続けてきたのでした。それは、まさしく復活の主が語りかけ、ご自身を現してくださった確信から始まるものでありました。 ですから、ユダヤ人が考えてきた、神の前における裁きのために、律法の存在があると考える思いとは違ったものだったのです。

義人も悪人もと語るパウロにとって、神の前に裁かれる心配や不安ではなく、全ての人が救われて、復活するという希望を感じていたのだろうと思うのです。彼にとって、自らは決して義人とすることはできず、むしろ自らを罪人のかしらとしたのでした。 律法を行うことによっては、だれひとりとして神の前に義とされず、罪の意識だけが生じるとするのでした。 現代に生きるキリスト者にとって、何の資格も、差別もなく、神が与えてくださった恵によって義とされることの喜びの中で、生きていきたいと願うのです。