自分の量る秤 2020年7月12日 主日礼拝

聖書 ルカによる福音書 6章37-42節

人間とは、それぞれ何らかの価値判断しながら生きていると言えるでしょう。価値判断とは、そこに規準が存在しなければできないことです。 それは宗教的とか、倫理的とか、社会的・文化的な背景をもって、良いか悪いかを瞬時で判断して、「人を裁く」行為に密接につながっていきます。ですから、「裁かれた」経験をもつと、どこかで自己保全のためにも「裁く」者になろうとするのです。ところがその人間と人間の関係性の中に、神のゆるしと愛が介在すると、「裁かれない」「罪に定められない」「赦される」「そして「与えられる」生き方が起こされていくのです。神の途方もない愛の中で、それも升に詰め込み、揺すり、溢れるほどよく量って、懐に入れてくれるほどに「与えられる」を、体験をするのです。 あなたがたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい(6:36との勧めには、主イエスに出会い、神の救いの福音に生きる者への励ましの言葉です。

わたしたちは、ただ神のみが人を正しく裁くことのできる方であることを知っていても、知らずしらずに「神の裁きの代行」を執り行おうとしてしまうのです。主イエスは、さらに3つのたとえを語ります。「盲人が盲人を手引きする」「訓練なしに弟子は師を越えられない」そして「自分の目にある梁を見ないで、他者の目にあるおか屑を取ろうとする」たとえ話です。これこそが、自分の量る秤で量り返される滑稽ともいえる出来事なのです。

わたしたちは、「人を裁く」「罪に定める」ような、厳しいことはしていないといいわけをします。どちらかというと、「赦してあげる」し、「与えてあげる」ことの多いものと思っている所があるのではないでしょうか? いつも自分は善人で、人との関係性を良好に保とうとしていると思い込もうとしている所に罪があるのでしょう。神の御前に立ち、自分で量る秤で、量り返される日が必ずくることを忘れないでいたいと思うのです。