良い実を知る 2015年1月18日 主日礼拝

聖書 マタイの福音書 7章15~20節

主イエスは「にせ預言者たちに気をつけなさい」と語られました。同じように、パウロもエペソの長老たちを呼び寄せて、狂暴な狼が、あなたがたの中に入り込んで来て、荒らしまわることに注意するようにと語ったことが記されています。 誰も人の心の中を知ることができないからこそ、羊の皮を着た貪欲な偽預言者の存在を不安に思うのです。当時の初代教会は、まさに偽預言者によって、教会が混乱し、弟子たちを揺さぶり、分裂していく危機の中にいたのでした。ですから、何とかして自分たちで探し出して、早いうちに取り除いておきたいと考えていたのでした。

しかし、主イエスは「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」と、実によって見分ける方法を示されるのでした。パレスチナの地方において、農作物を収穫するには、いばらとアザミとの戦いであったとも言える背景を思います。善悪を知る木より、その実を食べた人に向かい、「わたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。土地は、あなたのために、いばらとアザミを生えさせる(創世記3:18)」と神が語られたことを思うのです。一方、良い木、良い実の代表が、ぶどうであり、イチジクでありました。国や、神殿の豊かさを象徴するために、ぶどうとイチジクの模様が用いられ、現代の私たちの社会にも届けられています。私たちは、主イエスの言葉より、見分けることのできない木であっても、実ができるまで忍耐して待つことによって、正しい区別ができることを知るのです。

キリスト者は、人を信用し、人を裁くことができない、実に弱く、この世の悪の力に立ち向かう方法さえも、見出すことができないように感じることがあります。しかし、創造主なる神は、偽りと見せかけだけでは、いつまでも生きていくことのできないことを示しておられるのです。ですから、私たちは、主から受けた真実の実を共に分かち合いつつ、待ち望んで生きるのです。