誘惑の中で 2014年6月15日 主日礼拝

 

聖書 マタイの福音書 4章1~11節

バプテスマを受けた主イエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上っていかれたと、聖書は記します。悪魔の目的は、人間を神から離し、神を必要としないで生きようとさせることです。どんな人間も、この誘惑に直面させられるのです。

 

最初の誘惑は、四十日四十夜断食し、空腹になられた主イエスにむかい、「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」でした。まさに、「自分の能力を発揮してごらんなさい。」と、持っている力を示すように誘うのです。しかし、主イエスは、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による。」と答えられたのでした。主イエスが起こされた奇跡と言われる出来事は、力を示すのではなく、人々への愛や、あわれみのほとばしりの中で起こされたことを見るとき、御言葉を宣べ伝える使命に徹しておられる姿を思うのです。

 

次の誘惑は、聖なる都の神殿の頂きに連れていき、「あなたが神の子なら、下に身を投じてみなさい。御使いがあなたの足が打ち当たることのないように支えてくれるでしょう。」でした。人々の前で、大技を披露して、御使いさえも従わせていると見せようとすることは、神の子として、自分に注目してもらい、人々の歓心を買うことです。 主イエスは、「あなたの神である主を試みてはならない。」と語るのです。

 

最後の誘惑は、非常に高い山から、この世のすべての国々とその栄華を見せて、「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」でした。この世の最大の誘惑は、神と人とに仕えるために、権力を味方につけようとする事を思います。主イエスは、「引き下がれ、サタン。あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。」と書いてあると、答えられたのでした。キリスト教の歴史の中で、権力の誘惑に負けて、共に生きる道を見失った事実を、忘れないように語り続けていかなくてはいけないのでしょう。