2021年11月14日 子ども祝福式 礼拝 神の国を受け入れる人

聖書 ルカによる福音書 18章15-17節

イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れてきた。この場面は他の福音書にも記されていますが、著者ルカは取り立てて「子ども」ではなく「乳飲み子までも」という言葉を用います。当時の出生時の死亡率は時として30%に及び、生きて生まれた子どもの30%が6歳までに亡くなっていたと言います。(注1)子どもが生まれること、育つことへの渇望は想像以上であったと思われます。ですから先生、ラビと言われる方に触れていただき、その命の出来事を祈ってもらいたいと願って近づいていったのでしょう。

ユダヤ社会においては、子どもたちは数にも入らない存在で、律法を知らず、守る意志も持ち合わせないので、神の国、神の支配とは関係ないものとされていました。ですから弟子たちにとって、エルサレムへ向かう大事な旅の途中に子どもたちとの交流は邪魔としか思えなかったのです。しかし主イエスは、「子どもたちを私のところに来させなさい。神の国はこのような者たちのものである」と言われ、さらに「よく言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と語られるのでした。

この言葉は、子どもが純真、疑いを知らない存在ということで語られたのではありません。そこにいた大人たちへ、また現代社会に生きる私たちに示された言葉です。飢餓、戦争、災害、社会混乱などで最も被害を受け、命が脅かされるのは乳飲み子、子どもたちです。子どもたちは自らの力で解決する方法を持ち合わせてはいないのです。ただただ大人から与えられるものに全面的に依存し、身をゆだねているしかないのです。 乳飲み子がそうであるように、わたしたちは神の計り知れない恵み、慈しみを理解できないのです。このような罪深い私たちのためにキリストは死んで、神の国を受け入れる道をひらき、招いてくださったことを思うのです。

(注1)共観福音書の社会科学的注解