2022年3月13日 主日礼拝(東日本大震災を覚えて) 今の時を見定める

聖書 ルカによる福音書 12章49-59節

東日本大震災から11年が経ちました。今年もあの日を覚えて祈りを合わせ、共に礼拝を捧げます。この地震を覚えて祈り続けているのは、津波による行方不明者を抱えた家族のこと、さらに原発事故によって故郷を突然失われた人々の思いに、寄り添っていきたいからです。地上に原発が存在し続ける限り、重大事故の危険性は回避することはできず、まさにウクライナでは世界中が見つめる中で、原発の周りで戦闘が続いています。主イエスが語られた「今の時を見定める」ことのできない私たちだからこそ、御言葉にむかいあうことが求められるのです。

バプテスマのヨハネは、主イエスについて「その方は、聖霊と火であなたがたにバプテスマをお授けになる(3:16)」と、指し示しました。そして、本日の聖書箇所では、主イエス御自身が「私が来たのは、地上に火を投じるためである(12:49)」と、語られるのでした。さらに「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。むしろ分裂だ」とまで言われるのでした。

様々な解釈が示される箇所ですが、ご自身の家族ではなく、「神の言葉を聞いて行う人」にこだわった主イエスの深い思いと、炎が一人ひとりにとどまった聖霊降臨祭の場面から、自覚的に信仰者として生きることが求められていると思えるのです。聖霊の働きによって、家族、民族を超えて、地のはてまで福音が伝えられていきます。私たちは力によって力を制する社会の中で、主に従って歩むことの厳しさと難しさの中でこそ、和解の主に従って歩みたいのです。

さらになお終末の時が近づいている今、主イエスは途中で仲直りをするように導かれるのです。主イエスはエルサレムにむかう旅の先に、愛する弟子たちに見捨てられ、主なる神の沈黙に沈められる十字架への道を見据えて、私はどんなに苦しむことだろうと言われるのです。レントの時期、この主イエスの十字架での苦難、また復活の主が今も働いておられることにしか希望はないことを共に分かち合いましょう。