2022年6月19日 主日礼拝 塩気のない塩

聖書 ルカによる福音書 14章34-35節

最近やたらと「減塩」の表示の食品が目につきます。この国では、様々な成人病を引きおこすと言われ、なぜか肩身の狭くなった「塩」がいそうです。しかし、この聖書箇所では「塩は良いものである。」と、主イエスは語ります。現代社会に生きる私たちと違って、当時の食事事情は極めてシンプルで「塩」はなくてはならないものでした。

旧約聖書の中では、多くの「塩」にまつわる記述を見つけることができます。「あなたの穀物の供え物には神の契約の塩を欠いてはならない。あなたの献げ物には、必ず塩を添えなさい(レビ2:13)」などと、重要な意味合いが含まれています。イスラエルの地には「塩の海」といわれる死海があり、死海南部の西岸には「ソドムの山」と呼ばれる岩塩の山があります。しかし貧しい人々が用いる「塩」は、死海の海岸から集められたもので、砂の混じった、さらに他の化合物が混在したものが「塩」として売られていたようです。

その中で、主イエスは塩気のなくなった「塩」に注目し、その塩は何によって味がつけられようか。と、問うのでした。さらに、味付けに用いられる結晶以外の砂や別の化合物が外に投げ出されることを取り上げられるのです。主イエスは、弟子の条件として、家族との関係性、十字架に現される自らの重荷、さらに絶えず気になる財産に捕らわれず、一度捨て去って自由にされることを示しました。その続きとして、投げ捨てられるだけの「塩」に固執する愚かさを強調するのでした。

当時の「塩」には3つの用途があったといいいます。第一に腐敗を防ぎ新鮮さを保ち、次に多くの食品の味付けとし、さらに良い作物を実らせるための地に蒔かれたのでした。「塩」そのものが、溶けて消えてもなお人々の日々の生活を支える役目は、まさに主イエスが歩まれた道であり、弟子たちが主イエスに従って歩む生き方そのものなのです。