2022年7月17日 主日礼拝 失われた二人の息子

聖書 ルカによる福音書 15章25-32節

父親から財産の分け前をもらって遠い国に旅立ち、何もかも使い果たして帰ってきた弟を無条件で迎えた父親は、大喜びで祝宴をはじめます。ところが、家の近くに帰ってきた兄は、その事情を知り怒って家に入ろうとはしないのです。しかし、父親は兄の態度を責めることなく、何とかして兄をなだめ、中に入るように説得するのです。

兄は父親に「このとおり、私は何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。私が友達と宴会するために子ヤギ一匹すらくれなかったのに、あなたの身代を食いつぶして帰ってきた弟に肥えた子牛を屠っておやりになる」と、訴えるのでした。 兄は自分のしていることだけを示し、そこには弟を心配していた父親への気遣いは一つも見えてきません。明らかに弟を見下げ迷惑な存在、罪人とします。父親が弟をまた息子として受け入れれば、自分が受け取るべき身代は明らかに減らされることも気がかりになるのでしょう。

この3つのたとえ話はいわゆる宗教家といわれる人々が罪人と共に楽しそうに食事を囲む主イエスに対して文句をいったことで語られた言葉です。最後の兄に対する父親の言葉は弟が帰ったことに対する喜びの言葉がくり返されます。兄は律法を守り、ユダヤ社会の家父長制度の中で、父親に忠実に仕える良い息子です。しかし、兄こそが神との交わりから失われた存在であり、喜びの共有が実現しないのです。

現代社会においても多くの方が勤勉に働き、道徳的に正しく、経験豊かな人生こそが良いと考えられています。慈善や寄付についても積極的に参加し、言葉には現わさなくても、弟のような常識はずれな人々とは違うと感じているのではないでしょうか。しかし「あの人たちとは違う」という意識こそが、分断を生み、差別が始まっていくのです。主イエスは、計り知れない神の愛を具体的に現わし、喜びの共有を望み、今も失われた魂が立ちかえってくることを待ち続けておられるのです。