2022年7月31日 主日礼拝 わたしは渇く 岡本知子

聖書 ヨハネによる福音書 19章28-30節

今日のメッセージ題は「わたしは渇く」です。イエス様が十字架にかかられ、死ぬ直前に語られた言葉です。私は、この言葉だけ読んで、イエス様が渇くと言われた意味がよく分かりませんでした。どうして渇かれたのか、最期のことばとして渇くと言われたことにどんな意味があるのか、知りたいと思ったのです。

「渇き」、私たちは喉が渇きます。肉体的な渇きのほか、心の渇き、幸福でありたいと渇き、孤独の中で渇き、霊的な渇きを覚えることもあるでしょう。 「渇く」という言葉で最初に思い出されるのは、母のことです。母はがんで10年前に亡くなりました。主治医から最期の説明で、全身に水がたまり1日の水分量は制限されました。しかし母は喉が渇くと訴え、水を求め続けました。私は、母が水分を取りすぎると死期を早めるのではないかと怖くて、制限を守ろうと必死でした。母の渇きを癒せなかった後悔が、私の心の奥底にずっと残っていたのです。

イエス・キリストは、十字架の上で「わたしは渇く。」(ヨハネ19:28)と言われました。生ける水を約束されるお方が、「渇く」と言われました。最後の晩餐を終え、ゲッセマネの園で夜を徹して祈られました。神との交わりを断たれ神に完全に見放される経験を受けられました。初めから共にいた神から見捨てられ絶望する苦しみ、霊的な苦しみは肉体的な苦しみよりもまして苦しいものと想像します。その後、弟子に裏切られ、群衆に捕らえられ、死刑の判決を受け、鞭打たれボロボロになってゴルゴダの丘で十字架につけられていくのです。そして十字架の上で「わたしは渇く」と言われれました。イエス様は実際に渇かれ肉体的苦しみを味われたのです。罪とは何の関りもないお方が、罪として定められ、神から完全に見放されたのです。それは十字架を通して、私たちの罪をすべて負って、私たちの罪を帳消しにするためです。神と私たちが神の愛によって結ばれた正しい関係を生きることができるようになるためなのです。

わたしが渇き、神から見放される身だったのに、わたしこそが神との交わりに飢え渇くべきだったのに、罪人である私が受けなければならない渇きを、イエス様は十字架でご自分が渇くことによって、神の救いの計画を成就してくださったのです。私たちはこの十字架の贖いの御業を通して「命の水」、「永遠の命」をいただきました。イエス様のこの愛に心から感謝を捧げます。”