2022年8月7日 平和祈念礼拝 神の子として

聖書 マタイによる福音書5章8-10節

聖書が語る「平和」とは、おだやかなとか、満足したとか、静かな状態とは無縁のようです。この世界におけるあらゆる「いのち」が、それぞれに生き生きと多様さのままで互いに出合い、豊かな関係性へむかっていくことが「平和」の本質としているのです。ですから、権力や力によって一つにされることなく、本当に弱いものや小さなものが生かされ、認められていく共同体を目指しているように思えます。

山上の説教の中にある平和を造る人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる(5:9)を中心として「神」「神の子」「天(神)の国」を、マタイによる福音書より受け止めてみたいと思います。旧約聖書に描かれた「神」は、どの民よりも少なかった(申命記7:7)ことを理由とし、イスラエルという民族を特別に愛されたことが記されています。神の御子イエス・キリストがこの世に遣わされたことで、全ての民が神を見ることが赦された時代に私たちがいるのです。また「天(神)の国」とは、この世の命が終わってから行く場所ではなく、まさに主イエスが始められた「神が支配される国」を指し、義のために迫害される人々こそが受け入れられる国として希望を持って語られるのでした。

神から「神の子(私の愛する子)」とされたのは、主イエス・キリストでした。その歩みに従うことは、どんなに状況が悪くなっても、平和を造りだすために使命が与えられているのです。その道がいかに険しく、途方もないとしか思えないことであっても、主イエスが指し示す十字架において敵意は滅ぼされ、違った他者と和解して生きる道が拓かれていくと言われるのです。現代社会にいる私たちにとって、キリスト者として生きることは、少数者の中で肩身が狭く、自分たちの意見が主張できないことを感じることの多いものです。しかし、「主の平和」を追い求めていくことと、強さや力による一致を求める動きに合わせて生きることの両立はできないことなのです。