2022年9月4日 主日礼拝 始まりは少女の言葉

聖書 列王記下 5章1-3、9-14

ナアマン将軍はアラム王に仕え、主君に重んじられていたが、規定の病を患っていました。イスラエルの地から捕虜として連れてきた一人の少女が、ナアマンの妻に「サマリアにいる預言者のところに出ていけば、規定の病が癒してもらえるでしょうに」というのでした。

聖書の翻訳において、ここで取り上げられる「規定の病」は歴史的背景の影響を受けて何度も変更されてきた言葉です。何らかの皮膚疾患を指し、当時人がこれに罹患すると、他者に感染するとされ、治療方法が見つからず、隔離しか方法がなかったのでした。当然勇敢な将軍ナアマンにとっても頭もなやます病気であったわけです。まず、この小さな少女の言葉を捕らえてナアマンに伝えた妻の存在に注目したいと思います。そこには夫の病の癒しを願い、関係する情報を絶えず探しているからこそ聴こえてきた言葉だったのでしょう。

次に馬と戦車を従えてやってきたナアマンに対して、おじけづくことなく使いのものだけをやって「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい」と言わせた預言者エリシャに注目したいと思います。預言者であっても、戦闘態勢を組んで部下を従えてやってきた敵国の将軍に対して、言葉だけを届けることの決意を思うのです。

最後に注目すべきは預言者エリシャの言葉に身を翻して憤って立ち去ったナアマン将軍に対して進言する家臣たちです。ご主君、あの預言者は大それたことを命じたのではなく、「身を洗って清くなれ」と言っただけではありませんか 軍隊の上官に対して進言をすることは、極めて勇気のいることでしょう。しかし、この家臣の進言を聴き入れたナアマン将軍の体は少年のように清くなったと聖書は記します。

現代社会において、弱く小さくされた側から届けられる「神の言葉」は、そのほとんどが受け入れられず消されています。しかし言葉にすることのできる人と、立ち止まって聴くことのできる人との関係性こそが、本当に神に祝福されるべきものなのです。