マタイによる福音書12章22〜32節
イエス様は福音書の中でたくさんの病気を癒されました。今回も耳が聞こえず話すこともできない悪霊に取り憑かれた人が大勢の群衆の中からイエス様のもとに連れてこられたと書かれています。イエス様はこの連れてこられた人を癒されました。群衆はこのことに驚いて、彼こそイスラエルの中で再び来られると約束された救世主ではないかと話し始めます。
その群衆の中には当時の神様の教えを民衆に伝える宗教家兼政治家(パリサイ派)もこの出来事を目撃していました。そして、これは神の力ではなく悪霊の親玉(ベルゼブル)を使って、悪霊を追い出したんだと思っていたようです。なぜならイエス様はパリサイ派ではないし、律法を学んだわけでもなく地位もありませんでした。彼らは神様から遣わされたという証拠をイエス様に見つけることができなかったからです。
しかし、イエス様はそのことを見抜いて、悪魔の国でも悪霊が悪霊を追い出すならばその国は立ち行かない。パリサイ派の仲間たちも悪霊を人から追い出していたが、その仲間たちはどんなものを使って悪霊を追い出しているのかと言われました。イエス様はもちろん神から遣わされているので神の霊によって悪霊を追い出しており、神の国はすでにあなたがたのところに来たと宣言されました。
神の国は来たとイエス様が仰って実際にあらゆる病気や問題を解決していく姿に、パリサイ派の人々を始めイエス様に否定的だった人々は事あるごとに「ありえない!証拠を出せ。」という論争が十字架まで続いたとことは聖書に書かれています。しかし、イエス様がローマの法廷に連れて行かれた時にイエス様を取り巻いている群衆や弟子たちは残念ながら誰1人イエス様を助け出すために弁護のための証言に立たず、イエス様もご自身についての弁護をなさいませんでした。あなたは何のために来たのかとの質問の中でイエス様は真理を伝えるために来たとだけ言われました。
イエス様に人は言い逆らったのです。あの弟子であるペテロもイエス様を知らないと言いました。彼は赦されましたが、聖書に書かれている「聖霊にいい逆らう者は、この世でも来るべき世でも赦されることはない。」とはどう意味でしょうか。それは神が行った事柄を否定することだと聖書は語っています。現代の社会では「信仰は賭け」であって到底納得しうる証拠はないと思われるかもしれませんが、神様が私たちにしてくださった事柄を一歩踏み出して信じることが私たちの生きる道であり、そこに命があるのです。