マタイによる福音書2章1〜11節
11月は収穫の季節です。喜びとほっとした休息の中で、イスラエルはこの時期に結婚式と披露宴が行われていたようです。婚礼の席、縁も酣(たけなわ)の時に、「ぶどう酒がなくなりました」とこの宴会でトラブルが発覚します。
私たちの人生にもこんなことが起こるのではないでしょうか。本当に必要な時、夫妻の間の愛情、親子への想い、教会での奉仕、仕事などでエネルギーが枯渇してしまう。相手を潤し、愛情を注ごうと思っても、自分の中のぶどう酒が枯渇してしまうのです。枯渇した時の2つの対応として、まず誤魔化して生きる方法があります。私たちは、まさに、限界のある、有限の存在です。人を潤してあげる力が無尽蔵にあるわけではないのです。10節に、「誰でも初めに良いぶどう酒を出し、酔いが回った頃に劣ったものを出すものですが、…」という極めて常識的な対応の仕方です。中途半端なもので水を濁してしまうのです。
これに対して、別の対応があります。「水をぶどう酒に」という信仰の対応です。ぶどう酒の枯渇に直面して、神から水をぶどう酒にしていただき、全く新しいものを供給する生き方です。人は実は神様から生かされているのです。「水がぶどう酒に変わるはずがない」とお考えでしょうか?水はぶどう酒に変わるのです。実は被造世界はそのような奇跡に満ちています。また、神はイエス・キリストをこの世界に送ってくださり、溢れる喜びの源となって下さったのです。
無論、私たち人間は、水をぶどう酒に変えることはできません。私たちの出来ることは、水がめの縁までせっせと水を酌み入れることです。しかも待つことしかできないのです。結婚も、子育ても、勉強も、仕事も、教会生活も、そんな地道な積み重ねかも知れません。地道な働きかもしれませんが、神様のお働きのためにコツコツ準備して待つことはできるのではないでしょうか?!イエス様の到来によって「穢れ」を恐れ「清め」を求める宗教から溢れる喜びに生きる信仰へと変えられているのです。この新しい生き方に身を委ねましょう。