ヨシュア記 20 章 1 – 9 節
「目には目を、歯には歯を」という言葉はタリオの法と呼ばれています。この法律は復讐を助長するためのものではなく、過度な報復を防ぐために、罪と同等の罰に限定するためのものでした。古代社会では復讐は際限なく大きくなりやすく、秩序を保つために必要な仕組みだったのです。
しかし、この法律では解決できない問題がありました。それは、故意ではなく誤って人を殺してしまった場合です。もし同じ原則が適用されれば、その人も命を奪われなければなりません。そこで神は「逃れの町」を設けられました。逃れの町は全部で六つあり、どの部族からもすぐに行けるように配置されていました。そこに逃げ込んだ者は復讐者から守られ、公正な裁きを受けるまで安全に過ごすことができました。
なぜ逃げる場所が普通の家ではなく、聖なる街でなければならなかったのでしょうか。それは古代イスラエルでは血が命そのものを象徴し、宗教的意味を持っていたからです。血が流れることは社会と土地に不均衡をもたらすと考えられ、民数記には「血は土地を汚す」と記されています。そこで流された血を償うために復讐が必要だと考えられていました。
しかし復讐者を意味するヘブル語「ゴーエル」の本来の意味は「復讐する者」ではなく、「贖う者」「取り戻す者」です。つまり復讐は怒りの爆発ではなく、秩序を回復する宗教的意味を持った聖なる行為でした。しかしもし誤った復讐が行われれば、それ自体が新たな流血となり、土地を汚すことになります。そのため、逃れの町は復讐が正当かどうかを判断し、無実の血が流されることを防ぐために存在したのです。神は不必要な流血を望まれず、人の命を尊く扱われたことがわかります。
この旧約の制度の背景には、人間の弱さや復讐の連鎖を抑える神の知恵があります。しかしイエス・キリストはさらに一歩踏み込んだ教えを語られました。イエスは「目には目を」と言われてきた人々に対し、「悪い者に手向かってはならない。右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」と語りました。これは復讐の抑制ではなく、復讐を超えた赦しと愛の道です。
なぜそのような生き方が求められるのでしょうか。それは私たちが罪のない存在ではなく、誰もが心のどこかに傷や過ちを抱えているからです。だからこそ、赦された者として生きるよう招かれているのです。
そしてイエスさまは言葉だけでなく、ご自身の十字架によって贖いを完成されました。本来、罪人が流すべき血を罪のない神の子が流されたことによって、流血と復讐の歴史は終わりを迎えました。イエスさまは逃れの町以上の存在として、すべての人の赦しと救いの場となってくださいました。
逃れの町は誤って罪を犯した人の避難所でした。しかし今、私たちには逃げ込む場所ではなく、寄り添ってくださる救い主がおられます。イエス・キリストは、赦し、平和、和解をもたらす方です。私たちはその方のもとに身を置き、赦しと愛の道を歩むことができます。神様の愛と赦しをイエスさまはご自身の十字架の死によって実践されたのですから。
