2025年3月23日 主日礼拝 「逃げる場所がある」 長尾 基詩 神学生

ゼファニヤ書 3 章 9 -13 節

ゼファニヤ書から聖書のお話を聞く機会はなかなかないかと思いますが、だからこそ新たな発見があります。この聖書の箇所の歴史的背景ですがゼファニヤという預言者がユダ王国ヨシヤ王の時代、紀前 630年頃に活動したと言われています。さらに、ゼファニヤが活動した当初はヨシヤ王は8歳くらいで、実際の政治はすべて高官が担っていたため、ゼファニヤの預言は神様から高官に向けて語られていると言われています。
紀前 630年頃という時代は約10年後に申命記改革と言われる、異国の神を排除してユダ王国の民を聖書の神に立ち返らせるための宗教的な大改革が行われます。しかし、ゼファニヤ書の中ではそのような記述が見られないので、おそらくはその前の時代に対して預言していたと思われます。
つまり、ヨシヤ王の先々代の王であるマナセ王の時代において蔓延していた外国制度、慣習の依存が濃かった時代。ユダ王国は神様との契約を通して与えられた恵みを受け取りながらも、その存在を忘れ、神様が定めた掟に従わず、神様を忘れて他の神々に従っていたのです。ユダヤ教の大きな流れの中では、この時の罪が結局、捕囚という出来事となってその身に降り掛かるため、このことは大変な罪として預言者が指摘せざるを得ないものでした。
ユダ王国の民(人)は創造主としての神様を自分に都合の良いものとしか考えず、利用しようとしてしまう、そのような姿がないでしょうか。そして私達自身もこのような姿はないでしょうか。
本日の聖書箇所にはこうあります。
「私はあなたの中に貧しいもの、弱いものを残す。彼らは主の名を逃れ場とする。」3:12
神様はこれまで預言者の口を通して、徹底的に滅びを告げて来られました。しかしそれは、あくまで、力を持つもの、権威を持つもの、傲慢なものに対してです。貧しいもの、弱いものは残されるといいます。この残すという言葉は言い換えれば「生き残らせる」という意味の言葉です。
当時の政治では、律法に基づいて政治を行いますが、それを行う祭司などは自分たちに有利なように律法を解釈したり、偉い人には緩いルールを適用しました。反対に社会的に立場の弱い人には厳しく接していたようです。しかし、ゼファニヤによれば主の日(神様が審判を下される日)にはそれが逆になります。そして彼らは「主の名を逃れ場」とするのです。主の名とは、「キリスト」であり教会にこの名前がついています。
わたしたちはキリストを信じ従いながら、このキリストをこの地にあって宣べ伝えていくのです。そして世界の人々はこの「主の名」を見るたびに、キリストという名を心に刻んでいくのです。ここにこそ逃れ場があるのです。
様々な差別や抑圧のあるこの世界で、そんな時にでもキリストこそが逃れ場となるということ。さらに私達がイエス・キリストの名によって一致し、主のため、人のために仕える存在になることを祈ります。