2024年8月18日 主日礼拝 善き日々を過ごす

ペトロの手紙1 3章10-12節

新約聖書の中にある手紙は、初期教会の礼拝で公に読まれていたものが、次第に定着して正典とされていったものです。ですから、本日取り上げるペトロの手紙も、著者が誰であるかよりも、いまだ迫害の只中で、いかに手紙が教会を励ましていたかを共有したいと思うのです。この箇所は、詩編34章13-17節に記されたものが引用されています。しかし、著者ペトロが引用したことで、詩編のこの箇所が、特別に注目されることになります。

私たちバプテスト教会は、聖書を神の言葉とし絶対化するのではなく、聖霊の導きによってキリストを証言する書として捕らえています。ですから当時の歴史的な背景や地域性、文化や慣習も含めた上で、そこに信仰者による証言が記されていると受け止めていくことができるのです。聖書の記載には、真逆のことが記されている部分を見出すことがあります。それこそが、どの時代の、どんな状況で記されたかを想起することで、聖書の豊かな多様性を見つけだすことにもなるのでしょう。

さらに私たちが手にする日本語の聖書は翻訳作業を経ていることも大きな恵みと言えるでしょう。私たちは「善き日々」と「良き日々」では、違ったニュアンスを感じる文化の中にいます。すなわち手紙を記した著者、引用した詩編の著者、さらに翻訳者の信仰が手渡されていることになります。その中では、特に「命を愛し、善き日々を過ごす」為に必要なことが記されていきます。

「私たちは舌で、父なる主をほめたたえ、また、舌で神にかたどって造られた人間を呪っています(ヤコブ3:9)」 このように私たちは言葉で過ちを犯すことを自覚しながらも、皆思いを一つにし、同情し合う生き方を模索しているのです。悪は神と人との関係性を壊し、人と人が争い傷つけ合うことへと誘惑し、平和から遠ざかる生き方へとむかわせます。だからこそ、著者ペトロは「悪から離れ、善を行え、平和を求め、これを追え」と、キリスト者が一番にすることを強調していくのです。