ヨハネによる福音書15章1-10節
旧約聖書でぶどうの木と言えば、イスラエルの民を現わしていました。
バビロン捕囚の民は「万軍の神よ、帰って来てください。このぶどうの木を顧みてください。(詩編80:15)」と祈り、
自分たちを火で焼き、切り倒す人々へ「あなたの叱責によって彼らが滅びますように(詩篇80:17)」と叫ぶ言葉が残さ
れています。
一方、ヨハネによる福音書の15章では、主イエスはご自身を「私はまことのぶどうの木」と紹介します。
それは民族ではなく、血筋でもなく、主イエス・キリストを信じる一人ひとりが 生きた交わりをもち、主イエスを通
して神への信仰を表明することで、新たな神の民とされていくことを示されたのでした。
この箇所で「つながる」と「とどまる」と記されている言葉は同じ「メノー」という言葉が用いられ、「宿る」「住む」
とも翻訳される言葉です。これは枝がぶどうの木にくっついている程度の表現ではなく、もっと一つにされていること
を言います。
すなわちぶどうの木が土地からの養分を吸い上げて、その枝が豊かな実を結ぶ有様から、ぶどうの木と枝の関係性は、
まさに命の共有を思い描いて語られたのです。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊か
に実を結ぶ。(15:5)主イエスは「人の子の肉を食べ、その血をのまなければ、あなたがたの内に命はない(6:54)」
とまで言われました。さらに「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私の内にとどまり、私もまたその人のうちにとどまる
(6:56)」と、先ほどと同じ言葉での関係性を示されました。
大変生々しい表現ですが、主イエスの命に預かっていることを示しているのです。主イエスのこの世での信仰者としての
歩みは、徹底的に父なる神につながる(とどまる)生き方でした。それは神の愛に委ね、命の共有の中での神の戒めを
守り、喜びに満たされていた生涯だったのでしょう。私たちは神の恵みによって主イエスに出逢い、命の共有へと招かれ
ていることを喜びつつ歩みたいのです。