2025年5月18日 主日礼拝 「互いに弱さを担う者となる」山﨑 誠 師

マタイによる福音書 27章45-54節

私たちもイエスの十字架上の苦しみほどではないにしても、イエスが苦しまれたのと同じように毎日、毎日、傷み

苦しんでいます。各地で多くの災害が起こり、世界においても戦争が絶えることはありません。私たちの周りを見

回してもそうです。

自分の力ではどうしようない苦しみの中にある時、そして自分の弱さを覚える時、十字架上のイエスと同じように、

私たちも「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と毎日叫び続けているのではないでしょ

うか。そして、十字架上のイエスと同じように、その祈りに応えられない神に失望していないでしょうか。

しかし本日の聖書箇所の十字架上のイエスの叫びは、私たちの大祭司、イエス・キリストが、この私たちの叫びを代

弁してくださっておられます。イエス・キリストが苦しまれた十字架は、弱く小さい人間の代表として、真の人であ

るイエスが神から断絶され、裁かれる場所です。それと当時に、その同じ所で真の神であるイエスが、その弱い人間

と共に傷み、苦しんでくださる場所なのです。十字架上でイエスは、神を叫び求めましたが、神はこの叫びに応えら

れませんでした。

この時、神は何処におられたのでしょうか。ある神学者は「この時、だれも予想しなかった場所に神はいた」と言い

ます。神はそのような苦しみの中にあって、真の人イエスと共におられたのです。そして今苦しむ私たちと共におら

れ、共に痛んでくださる方なのです。十字架は、神が弱い人間の傍らにいてくださる愛のしるしです。このように私

たちも、十字架のイエス・キリストに倣うものとして、共に在るものとして集まることを止めないで、互いにそれぞ

れの弱さを背負い続けていくものとなりたいと願うのです。