マルコによる福音書 1章16-20節
ガリラヤで宣教を開始された主イエスは、町々を巡回しておられた途中で、網を打っているシモンとアンデレ兄弟に
出会われた。日常の生活の場に主自ら近づかれ、「私についてきなさい。人間をとる漁師にしよう」と声をかけられた。
貧しい「無学な普通の人」である漁師を最初の弟子に選ばれたのは、自らの弱さを知るへりくだった人々を通してこそ
神の栄光が現わされることを示すためでもあっただろう。
主イエスは、おひとりで宣教をされず、あえて弟子たちを手間暇かけて教育し、宣教の業に加わらせてくださった。ま
ず、日頃から助け合っているこの漁師兄弟たちを招いて教会の基礎を定め、チームワークによる宣教のあり方を教えて、
永続的な福音宣教の働きを可能にしてくださった。中村哲師が、アフガンの地元民と共に汗を流し、教え育て、事業を
永続的なものとされたことと似ている。「人間をとる漁師になる」とは、主イエスがなされていた福音の業に加わると
いうことである。それは、会堂でただ教えるだけではなく、貧しく、弱く、虐げられている人々を訪ね、神の国を宣べ
伝え、病気を癒しながら町や村を巡回されている主イエスの後に従うことだった。シモンとアンデレ、そしてヤコブと
ヨハネ兄弟は、網や舟を捨ててすぐさま主イエスに従った。
なぜそのようにできたのか、心の動きは聖書には書かれていない。しかし、彼らが何をどう考えて弟子になる決断がで
きたのか?を探ることは、この召命を人間の出来事に引き下げることだ。召命は「神の出来事」である。いつ、誰を選
び、どこへ遣わすか、それは神ご自身が決定なさる。召命への応答も、神から与えられた恵みなのである。最初の弟子
となった彼らは、優秀な弟子であり続けたわけではなく、何度も迷い、つまずいた。主イエスが十字架にかかられる時
には逃げ去ってしまった。そのような、弱く迷い多き者であることを十分承知の上で、主イエスは彼らをそのままで弟
子とし、愛し育て、宣教の歩みを共にされた。そのことに大きな慰めと励ましをおぼえる。
主イエスの示される宣教の形は「一本釣り」ではなく、仲間同士の協力しなければできない「網漁」である。単独では
なく、協力してチームワークで宣教に取り組むのが教会。「さあ、一緒に漁に励もう」と言われる主の招きに応えて従う
時、主は驚くほどの恵みを与えて祝福し「大漁」としてくださることを、主は約束してくださっているのだ。