ローマの信徒への手紙1章16-17節
私たちはイエス様が「神の子」であり、「キリスト=救い主」と信じています。このことは十字架で死なれたイエスとはどういう人なのかを一言で示す、りっぱな肩書きです。一方で信じていらっしゃらない方々にとっては、このことが蔑み・嘲笑・無視・差別を引き出さずにはいられない内容なのではないでしょうか。
しかし、宣教の内容、すなわち福音は「愚か」であることを神様ご自身が認めています。さらに、神様はそんな「愚か」な言葉を「信じること」(信仰)によってのみ人が救われることを定められました。
神様が「信仰のみ」にこだわられる、三つの理由を申上げます。
第一にそれは、神をおそれようとしない私達のプライドを完全に打ち砕いてしまうことにあります。
「神は知恵ある者を恥じ入らせるために、世の愚かな者を選び、強い者に恥じ入らせるために、世の弱い者を選ばれました。」(コリントの信徒への手紙1/1:27)
「それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」(コリントの信徒への手紙1/1:29)
自分の能力や努力を誇るものは、決して神様の救いを受け取ることができません。
第二は、福音は信じれば、すべての人にとって救いとなることを示すためです。本日の箇所にも「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。」と書かれています。
第三は、救いは完全に神の力によってのみなされるということを示すためです。聖書には「救いをもたらす神の力」とありましたが福音は、単なる気休めではなく、きっかけでもありません。必ず私たちの救いを実現して下さる、これが「神の力」なのです。
この福音を信じることは必ず救ってくださる神の力に、自分自身を委ね、任せること。これが信じることの本当の意味です。神の救いの力に人間の努力は一切必要ありません。
では私たちは何から救い出されるのでしょうか。死後、地獄に落とされることからでしょうか。罪の力や悪に支配されたこの世の悲しみや絶望・恐れ・痛み・病気からでしょうか。人生の中で私たちが出会い、悩まされる様々な問題からでしょうか。
これらの問題はすべて神でなく私たちの側に原因があります。それは、私たちがまことの神様を神として認めず、崇めず、従わずにただ自分の目に良いと思う価値基準で生きようとするところ。また、私たちは神によって創られたにも関わらず反逆し、憎み、ひたすら無視し、逃げようとする存在となったことです。
「福音」つまりイエス様の十字架と復活は、そんな罪深くみじめな私たちを、神様との本来の正しい関係へ回復し、すべての呪いから私たちを救い出して下さるのです。
「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。神の義が、福音の内に、真実により信仰へと啓示されているからです。「正しい者は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。