「復活の朝、希望の朝」   

イースター特別礼拝 巻頭言 「復活の朝、希望の朝」

武林真智子

 朝、わたしたちは、どんな状況であっても、暗闇をつらぬいて来る光を感じ、受け止めるのです。今日の主人公、女たちもまた、朝になるのを待ち続けていたのです。
ユダヤの一日は、夕方の6時からはじまるのです。その前にイエス様の遺体は、墓に納められなければ、何もしてはいけない安息日になってしまう。大急ぎで、墓に納められていくのを、遠くから、女たちは、その目で、しっかりと見届けていったのでした。 悲しみと、憤り、埋葬のための、香油さえ、ぬって差し上げることもできなかったと思いながら、長い長い夜を、女たちは過ごすのです。 朝になれば、イエス様のお墓にいこう。朝になれば・・・・・
週のはじめの明け方近く、女たちは、準備しておいた香料をもって墓にむかったのでした。ところが、墓を閉ざしていた、大きな石は、ころがされていたのです。 そして、女たちが見たものは、空っぽの墓。 そこへ、まばゆい衣を着たふたりの人たちの声「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中に探すのですか?」
これほどまでに愚かな探し物はないでしょう。しかし、現代のわたしたちもまた、自分たちの事でいっぱいになってしまうとき、こんな探し物をするのです。 すぎてしまった過去にとらわれて、あるいは自分の限界を超えた悲しい出来事の前に、死者を探すように、墓へとむかっていくのです。
「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中に探すのですか?ここにはおられません。よみがえられたのです。」よみがえる。復活する。起こされる。と言う言葉が用いられています。まさに、死人の中より、起こされて、生ける者とされたというのです。
よみがえられた主イエス・キリストは、この世のわたしたちに探される方ではないのです。生きて自由に、聖霊の風の中で、私たちの失われた心、自己中心の思い、人と和解することのできないかたくなな魂を探し出して、救おうとされる方なのです。これは、歴史的な事実だけではなく、現代に生きる私たちにとっても、信じようとすることで、受け止めることのできる事実なのです。