聖書 ヨハネの福音書 19章1~9節
旧約聖書の中では、人が人を裁く事は、神さまからの力をいただかなければ、成し得ないこととされています。ダビデに代わって王とされたソロモンは、「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心を、しもべに与えてください。」と願い、主の御心にかなった。と記されています。現代社会において、多くの冤罪が明らかにされるとき、人が人を裁くことの難しさを感じます。
暗闇の中で、祈りつづけた主イエスは、祭司長、律法学者から送られた役人によって捕られ、明け方に、総督官邸に連れられていきました。総督ピラトは、ローマ兵を連れて、この過越の祭りの間に、暴動が起きないように、平和が保たれるようにとエルサレムに来訪していたのでした。主イエスを訴え出たユダヤ人たちが、彼らの律法によって官邸へと足を踏み入れないために、総督ピラト自らが、主イエスと律法学者たちの間を何度も行き来するのです。論点は、イエスが、「ユダヤ人の王」と、自らが表明し、神の国を語ったことでした。
総督ピラトは、何度も「私は、あの人に罪を認めない。」と、釈放を提案するのです。主イエスの言葉、振る舞い、そして、その眼差しに出会ったとき、ピラトであっても、そこに神さまからいただいた出会いが確実にあったことを思うのです。揺れ動くピラトの心と対象的に、兵士たちは、いばらで冠を編み、主イエスの頭にかぶせ、紫の着物をきせ、「ユダヤ人の王」の戴冠式をまね、嘲り、つばきをかけ、愚弄していくのでした。
わたしたち人間とは、隣人の命の出来事に責任を負うことは、回避したいと思いながら、自分自身に責任が及ばないときには、罪に定められ、裁かれていく罪人にむかって、偏見と差別の矛先を向けてしまう者なのかもしれません。主イエスは、再度聞き出そうとする総督ピラトにむかって沈黙されたまま、いばらの冠をかぶり、十字架への道を進まれます。
彼は、痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。(イザヤ53:7)