さぁ 目を上げて 2014年7月13日 主日礼拝

聖書 創世記 13章1~18節   日本バプテスト連盟 教会教育室長 榎本譲

神の祝福のしるしであると思っていたものが、逆に、お互いの共存をはばんでいくことがあります。「彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかった」(創13:6)。アブラムもロトも、これまで移住者である困難な境遇にありながらも、苦楽を共に支え合ってやってきたのです。にもかかわらず、恵みとして与えられたはずの財産が、お互いの間の争いのもとになりました。悲しいことです。 わたしたちは、財産や蓄えが多いほど、生活の安心と将来への保障を手にしている、と思ってしまいます。しかし、「持っているがゆえに、うまくいかなくなる」という事態が生じているのです。アブラムは、ここに至って、争うのをやめようと申し出て、一定の距離をもって互いの生活を保とうと提案します。そして、良いと思う土地を先に選ぶ権利を甥のロトに与えます。家父長制によれば、アブラムが先に選び、あとからロトが、というのが自然かもしれません。ロトは言われるままに、良い土地を選びます。 誰にでも、自分に有利なものを手にしたい、という意識は働きます。別れたのちのアブラムは、満足どころか寂しそうです。世話してきたロトが、最も良い土地を自分に残してくれると期待したのかもしれません。「さあ、目を上げて」(13:14)との主の呼びかけで、アブラムはうつむいていたのかと想像します。別離の悲しみよりも、期待に反して、良いものを持って行かれた無念さと孤独感で。 使徒パウロは告白しています。「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました」(ピリピ3:7)。 主はアブラムに言います。「わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう」(13:15)。「どこもかしこも、あなたのものではないか」と語りかけることで、主は、彼が「祝福の源」となる約束へと、彼を立ち返らせようとします。