みこころのままに 2013年12月15日 主日礼拝

聖書:使徒の働き21章10~14節

「もう二度と私の顔を見ることはないでしょう。」というパウロの言葉によって、心を痛めた人々の見送りを受けて、旅は続きます。聖霊の示しによって、パウロに出会う人々は、口々に、エルサレムへ上らないようにと忠告するのです。ユダヤから下ってきた預言者アガポは、自分の両手と両足をパウロの帯で縛って、パウロが投獄されてしまうと、聖霊のお告げを語ります。それを聞いた弟子たちは、カイザリヤの教会の人々と共に、行かないように懇願するのです。しかし、パウロは、「私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえ覚悟しています。」と、応えていくのです。

何度も忠告し、繰り返し頼んでも、聞き入れようとしないパウロに向かって、カイザリヤの教会の人々は、「主のみこころのままに」と、言って黙ってしまいます。そこには、自分たちの大切な愛の交わりを超えて受け入れるべき、主の意思を感じている人々の姿を見るのです。

私たちも、その人を愛するゆえに、その人を心配し、その人に忠告をするのです。しかし、振り返るとき、自己正当化を、主にゆだね、主のみこころに聴いているか、を問われるのです。お互いを尊重し、主にみこころが行われるようにと、祈ることのできる者へと変えていただきたいと思うのです。

聖書の中には、主の意思に従い、主の召しを特別なものとして、新しい一歩を歩みだす多くの人々が、登場します。アドベントのこの時期、主の意思に従い、主の召しを特別なこととして受けとめていく一人の少女マリアに出会います。御使いからの喜びの知らせは、彼女を戸惑いと恐れの中に投げ込み、しゃがみこませていきます。誰も信じてもらえないかもしれないし、ふしだらな女と指さされる事も、婚約者と離れ離れにされることも、予想できるのです。それでも彼女は答えるのです。「おことばどおりこの身になりますように」