み言葉で生きる 2021年1月3日 新年礼拝 

聖書 マタイによる福音書 4章4節

昨年2020年は、コロナ危機の中で、教会は様々な予定変更や中止に追い込まれていきました。その中で、共に礼拝し、み言葉を受けることの大切さが、いかに大きいことであるかを体験できた年でもありました。新しい年の始めに、年間主題「み言葉に生きる」から初めていきたいと思います。

主イエスがバプテスマを受け水から上がられると、「これは私の愛する子、私の心に適う者」という声が、開かれた天より届きます。その後、主イエスは試みを受けるため、霊に導かれて荒れ野に連れて行かれるのでした。聖書が記す「荒れ野」には、出エジプトの民が歩んだ40年の旅を思いおこす場所であり、厳しい試練の中で、真に頼りになる唯一の神に出会う所でもあるのです。

40日40夜の断食の後、空腹の主イエスに、試みる者が近づいてかける言葉は「神の子なら」です。天からの声に対峙するように「神の子」としての生き方が問われていくのです。ここに、人間として神に信頼し、徹底的にみ言葉によって生きることのできる姿を見ることができるのです。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」との誘惑に対して、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」と書いてあると、主イエスは応答するのでした。

出エジプトの民が広大で恐ろしい荒れ野を進むとき、主なる神は硬い岩より水を湧き出させ、先祖も知らないマナで養ってくださいました。それは、人は主の口から出るすべて言葉によって生きることを、あなたに知らせるためであった(申命記8:3)と、言われるのです。世界中がパンデミックの中で、多くの情報に、経済破綻に、人々が揺さぶられ不安が広がっています。格差社会がより際立ってきて、貧困、差別による闇が覆うとしています。だからこそ、感染症からの解放を願うとき、何よりもまず先に、神への信頼と他者のために生きた主イエスを思い、共に祈り合うことが求められているのです。210103_001