聖書 ローマ人への手紙 6章8~10節
今日は、イースター、復活祭です。主イエス・キリストの復活を記念するこの日は、教会にとって、最大のお祭りです。しかし、誕生を喜ぶクリスマスと違って、復活を記念するという出来事に対して、理解できないとか、歴史的根拠が見いだせないという多くの疑問の声を聞くのも、このお祭りの特徴なのでしょう。初代教会の有様を描いた「使徒の働き」は、主イエスを信じる人々が、主の復活を覚えて、週のはじめの日、すなわち日曜日に礼拝することを大切にしてきたことを記します。復活の主に出会った喜びの朝、その日を礼拝する人々が、歴史を動かし、休日となって、今、共に礼拝できる日として整えられていることを思うのです。
わたしたちは、主イエスの生涯の最後の一週間、すなわち主イエスの十字架への道のりを覚えるとき、政治的抑圧、経済的搾取、そして宗教が持つ正当性に対して、正面から、「否」と行動されていることに気づくのです。主イエスは、いつも虐げられ、辱められている人々と共に歩まれたのでした。そのことは、強さや大きさに対して、魅力を感じ、安心を抱き、弱さや小さくされた人々と、距離を置いたり、関係性を持とうとしない私たちに対して、問いかけ、迫ってくるのです。
十字架の上で、主イエスは、殺されていきました。しかし、それで、終わりではなかった、神は、主イエスを復活させられたのでした。主イエスが自らの力で、復活したのではなく、神の恵みと愛によって、復活させられ(起こされ)、今も生きて働いておられるのです。このことを、パウロは、喜びの感動を持ってローマの教会にあてて記したのです。それは、この世に生きる私たちも、キリストと共に生きることができる道が、備えられたことを現しているのです。キリストと共に生きるとは、主イエスが目指した「神の国」の完成のために、キリストの愛に応答し、希望を見失わないで生きることなのです。