サウロという青年 2013年6月16日 巻頭言

聖書 使徒の働き 7章54~60節

先日、外海にある遠藤周作文学館、歴史民族博物館などを訪問し、沈黙の碑「人間がこんなに哀しいのに、主よ、海があまりに碧いのです。」の前に広がる海を見つめてきました。長崎に来て、どこにいっても、「殉教」にまつわる場所があり、その歴史を負って、人々が生きておられることを痛感するのです。

本日の箇所は、最初の殉教者ステパノが眠りにつく場面です。人々が、彼を殺していくという行為の最初から最後まで、一部始終を、見届けていた一人の青年がいました。その名を、サウロ、後にパウロと呼ばれ、使徒の働きの中で、多くの教会形成に大きく影響を持つことになった人物です。丁寧に、この前の箇所から読みすすめていくと、彼は、同胞が、ステパノと議論し、対抗できなくなり、人々を煽動して議会へと連行していく時から、同行しているのです。議会での、御使いの顔のようなステパノの顔を記憶し、アブラハム、モーセ、そしてイザヤの預言が、まさに実現したことを語る宣教に耳を傾けていったに違いないのです。しかし、彼の同胞は、ステパノの信仰告白を、神への冒涜として受け止め、対話ではなく、実力行使に及ぶのです。自分を正当化し、自分こそが神の側にいるという自負の中で、石打ちの刑へと突き進んでいくのです。

サウロは、聖霊に満たされて語るステパノの最後の言葉を聴くのです。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」 十字架の上で、主イエス・キリストが語った言葉を体験できなかった彼にとって、その言葉は、心に刺さり、消えることのないものとなったに違いないのです。主と共にある平安の中にいるその顔を忘れることはできなかったのでしょう。しかし、人を殺すことに加担した痛みを抱えながら、彼は、この日を境に、初代教会に対して、激しい迫害の先頭に立っていったのでした。