何を拝んでいるのか? 2013年11月3日 主日礼拝

聖書:使徒の働き 17章22~31節

パウロは、学問の町アテネのアレオパゴスという丘の上で、当時哲学の主流といわれるストア派、エピクロス派の人々を前に、福音を語ります。「アテネの人たち、あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。」まず、相手を尊重し、その場所にある祭壇に記された「知られない神」を手がかりに語りだすのです。多くの人々の思いを受け止めるように、この世界をお造りになった神は、人間が作った宮には住むことがないことを示します。 また、被造物にいのちと息を与えてくださったこと、さらに探し求めることされすれば、私たちの近くにおられる神を見出すことができると語っていくのでした。しかし、その宣教は、確信の部分、すなわちキリストの復活を語ることによって、あざ笑いの対象となり、「このことについては、またいつか聞くことにしよう」と、ほとんど人々に相手にされない結果で終っていきます。

日本の八百万の神々を拝む風習の中で、愛する家族、友人が、なんとかして福音に触れ唯一の神に出会ってほしいと願う私たちは、パウロが、この哲学好きの好奇心旺盛な人々にむかって語る福音のゆくえを、探ろうとします。 パウロの宣教は、失敗だったのでしょうか? 彼に付き従って信仰に入った人々の名前が、聖書に記され、私たちへと届けられているのです。 しかし、知識と理性だけでは、決して越えられない部分が、信仰を受け入れる、あるいは主イエスに出会うというという出来事を支配しているようにも思える場面です。次の宣教地コリントの教会へ、パウロは、「神は、みこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められた」と断言していきます。ユダヤ人にとってつまずき、異邦人にとっては愚かであっても、十字架につけられたキリストを宣べ伝えると記すのです。

十字架の言葉は、滅びにいたる人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。