勇気を出して 2014年1月19日 主日礼拝

聖書:使徒の働き 23章11~22節

「行きなさい。わたしはあなたを遠く、異邦人に遣わす。」と、主がパウロに語られたという言葉は、そこに集っていたユダヤ人の逆鱗に触れます。「こんな男は生かしておくべきではない。」と考えた人々は、徒党を組み、とうとうパウロを殺してしまうまでは、飲み食いしないと誓い合うのでした。祭司長、長老、さらに議会の人々をも巻き込んで、ローマの兵営に繋がれているパウロを連れ出して、殺そうと陰謀を企てるのでした。

ここに一人の青年が、登場してくるのです。彼は、パウロにとって、甥にあたり、このエルサレムに住んでいた様子です。彼は、この陰謀を聞き、兵営に入り、獄に捉えられているパウロに面会を求めます。彼にとって、この行動を起こすまでに、大きな決断が必要だったことでしょう。しかし、彼は、愛する叔父パウロの窮地を知って、行動に移すのでした。ユダヤ人たちに知られたら、自分の命も危ないことも予想できます。しかし、パウロに面会に行き、さらに、ローマの百人隊長に連れられて、千人隊長のもとまで出かけていくのでした。

聖書は、「勇気」という言葉を用いるとき、英雄的な心構えというより、平和的な、さらに尻込みしない心を現し、これも神よりの賜物としています。この青年は、パウロから、救い主として待ち望んでいた方、すなわち主イエス・キリストの出来事を知り、受け入れたのでしょう。神様からいただいた「勇気」を持って、圧倒的な支配階級の千人隊長に向かって、彼らの陰謀と、危険を回避することの嘆願を述べることができたのでした。

「恐るな」と、主の使いは、主イエス・キリストの誕生を知らせ、主イエスご自身も、弟子たちに向かって、「しっかりしなさい。恐ることはない。」と励まされました。福音は、それを受け入れた人を、恐れや不安から解放し、喜びと確かさを与えていきます。わたしたちは、神の愛が、人を勇気で満たしていくことを見るのです。