フィレモンへの手紙8-16節 西南学院神学生 國分美生
戦争が終わって平和な時代になったとよくいいますが、戦争さえなければ平和なのでしょうか?豊かで便利な生活を手にすることと「平和」を手にすることとはまた別の問題です。平和に至る重要なプロセスの一つは「和解」―神と隣人との正しい関係の回復です。キリストの十字架と復活により隔ての幕は取り去られ、人は神に和解させられ、同時に人と人との和解も成し遂げられています。そうと信じられないような現実がわたしたちの目の前にはあるのですが。
フィレモンへの手紙は、パウロがオネシモという奴隷のためにその主人に書いた執り成しの手紙です。オネシモは自由を求めて逃亡し、囚われていたパウロのもとに身を寄せ仕えるようになりました。そしてパウロに導かれキリスト者になりました。パウロはオネシモを主人であるフィレモンのもとに送り返そうとします。フィレモンに対し、オネシモを再び受け入れる際には奴隷ではなく愛する兄弟として迎えてほしいと言い、「あなたは財産である奴隷を失うことになるが、代わりに主にある兄弟を得ることになる」と伝えます。オネシモとフィレモンの隔てはすでにキリストによって取り払われていました。フィレモンがそのことに気付くことがパウロの願いでした。パウロが問題にしたのは「キリスト者がキリスト者を支配することがはたして正しい行いか」ということでした。
先日岩手へ被災地支援に行き、人々の傷と分裂を目の当たりにしました。復興は進んだとしても津波に流された命や生活を、私たちは元通りにすることはできません。限界ある不条理な世界の中で今私たちがなすべきことは、すべての人は神に和解させられており、それゆえ隣人とも自分自身の人生とも和解させられるということを、心から信じることです。傷は残る。しかし人は復活の主によって立ち上がらされます。和解はすでに成し遂げられていることを信じ、完全な和解、平和の実現を祈り求め続けたいと思います。