嵐の中で 2015年3月8日 主日礼拝

聖書 マタイの福音書 8章23-27節

弟子たちに、「わたしについてきなさい」と、招かれた主イエスは、すべてを神に信頼し、委ねる生き方を示されました。しかし、弟子たちは、主イエスの向かう先のことも、その道の険しさも理解できないまま、それでも、主イエスに従っていこうとしたのでした。

主イエスは、人々を避けて、向こう岸へ渡る舟に乗りこまれ、弟子たちも従っていったのでした。一緒の舟に乗ること、ユダヤの社会から離れることだけでも、大きな決心が必要だったと思われるのです。山々に囲まれ、すり鉢のような場所にあるガリラヤ湖は、今も突然の激しい突風にさらされるといいます。 当時の人々にとって、突然の気象現象は、悪霊の仕業とも考えられていた様子です。弟子たちの何人かは、漁師であったのですが、その時の大暴風は、彼らの想定外の出来事で、恐ろしさの中に投げ込まれたのでした。

弟子たちは、「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」と、眠っている主イエスを揺り起こすのです。主イエスは、「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」と言われるのでした。私たちは、この場面を、弟子たちが、叱りつけられた場面と思いがちです。しかし、主イエスが叱られたのは、風と湖であって、弟子ではないことを思うのです。主イエスは、大きな決心の中で、従ってきた弟子たちを愛しておられたのです。 突然の嵐の中で、自分たちでは解決できない状況で、「主よ。助けてください。」と叫ぶ弟子たちへ、主イエスは、愛に満ちた顔で語られるのです。「恐れることはない。私が共にいる。信仰の大きさは問わない。」

聖書は、人々が現象だけを見て、驚いて「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」と言った言葉を記します。人々とは、いつも第三者で、主イエスを眺め、一緒に舟に乗ろうとはしない人として表すのです。キリストに従うとは、主イエスが乗られる舟に、一緒に乗り込むことから始まるのです。