平和を告げる方 2013年8月25日主日礼拝

聖書 ゼカリヤ書9章9~10節

バビロン捕囚から、みじめな思いを抱え、ようやく故郷に帰ってきた人々は、再建、復興のために、働き続けました。 ゼカリヤは、闘いによって家族を失い、捕囚先で、差別と偏見の中で、虐げられていた人々に、大いに喜びなさい。あなたがたの王が来られる。と、希望を語るのです。 そして、来るべき平和をもたらす王は、勇ましい軍馬ではなく、戦争には役に立たない「ろば」に乗ってやってくると知らせていくのでした。そして、この預言は、主イエス・キリストがエルサレムへの入場のときに成就されたと、マタイ福音書は語ります。

「ろば」は、旧約聖書の中で、色々な場面に登場してきます。アブラハムが、苦悩の中で、イサクを捧げようとする道中で、薪を背中に乗せて、その道を共に歩むのでした。主の使いを、乗り手バラムより先に見出しうずくまって、前進を止めることもありました。家畜の中で、一番数多く飼育され、人々の生活の只中で、粗食に耐え、この地域の暑さの中で、丈夫で、たくましく、人の役に立つ動物でありました。ですから、この「ろば」に乗ってこられる王は、人々と共にあり、人々の病、苦しみ、悲しみを知っておられる方でありました。

待望するメシア、救い主は、弱い人のために正当な裁きを行い、貧しい人を公平に弁護し、全てを、神に信頼し、自分自身には何の栄光も持たず、救いを賜る方であると、預言者は語ります。そこには、弱い人が守られ、強い人が私利私欲を超えて仕える道が示され、本当の平和が宣言されていくのです。その平和の国は、戦車、軍馬、そして戦いの弓までも、廃棄され、海から海へ、地の果てにまで、及ぶというのです。

しかし、わたしたちは、平和を告げる方を、排除し、殺していった歴史を担う一人ひとりであります。復活の主は、来てくださり、真の平和の国の完成の途上にいる教会は、終わりの日まで、和解の福音を告げる使命をいただいているのです。