律法の完成者 2014年8月24日 主日礼拝

聖書 マタイの福音書5章17~20節

マタイの福音書5章から7章に記された山上の説教は、主イエスが一日で語られたものではなく、色々な場面で、何回にも分けて語られた言葉であると言われています。ですから、著者が自らの共同体への深い思いの中で、その順序を配慮して書かれたものであることを感じるのです。本日の箇所も、前節の「あなたがたの良い行い」に応答するように、主イエスは、律法について語りだしていくのです。

聖書の中で、律法や預言書と語られるとき、私たちが手にすることのできる旧約聖書全体を示しています。律法の中で決められている事柄から、自由にされている主イエスの行動を見るとき、イエスにつき従った人々の中に、自分も同じように律法を否定して良いと思い違いをする人々が現れてきたのでした。他方では、律法を守れないということで、イエス自身を批判し、その存在までも否定していく律法学者やファリサイ派の人々が影を落としていたのでした。

十戒に代表される律法が目指しているものは、神の恵みの中で、神様の民として歩むことであり、その神は、いつ呼び求めても、近くにおられる神であると記されています。しかし、残念なことに、その律法の本質的な部分ではなく、その諸規定や、個々の取り決めだけが伝えられ、遵守することばかりが求められるようになってきていたのでした。そのような社会の中では、どれだけ律法を守れているかによって正しいとか、救われるとかの基準が出来上がってしまっていたのでした。

主イエスは、わたしは律法と預言者を廃棄するためではなく、成就するために来た。と語られ、天地が滅び失せない限り、律法は決して消えることはないと言われました。人間がどんなに強い意志で、律法を守ろうとしても、正しく救われていく道は断絶されているのです。まさに神の愛によって、主イエスがこの世に来られ、十字架と復活の出来事によってのみ、私たちは救いの道を経験することができるのです。